【ロールモデル】
ロールモデルとは
福岡女子大学名誉教授
日本における女性学研究の草分けとして知られる秋枝蕭子さん。時代の波に翻弄されながらも、自らの信念を貫き通し、女性の地位向上に大きく貢献してきた。内閣府より男女共同参画社会づくりの功労者として表彰され、勲三等瑞宝章も叙勲。ご本人の口から語られるエピソードの数々はまさに貴重な歴史の1ページであり、背筋が伸びる思いがした。
秋枝さんが生まれたのは、大正デモクラシーが華やかだった大正9年。「両親ともにリベラルな考えの持ち主で、福岡県芦屋出身の父は自由な職業に就きたいと上京、新聞記者に。私と兄弟を男女の区別なく育ててくれました。でも、一歩外に出ると、差別がまかり通っていたんです」。
「男は働き、女は家庭を守る」、それが当たり前の時代。女性に高等教育は不要とされ、大半は小学校卒業どまり。そんな社会に、秋枝さんは幼いころから疑問を抱いていた。小学1年生のとき、女の子は「大きくなったらお嫁さんになりたい」と口をそろえるなか、「私は先生になる」と公言。おかっぱ頭で人一倍小柄ながら、ガキ大将とやりあって負かすなど、活発な少女だった。
戦前、旧帝国大学は男子だけを受け入れ、例外として東北大学と九州大学のみ、2次試験で女子の受験を認めていた。秋枝さんは東北大学西洋史学科に入学。新入生約1,000人のうち、女子は例年2、3人だった。教授に「先進国の女性史を学びたい」と相談したが、「そんなことに興味を持つ者はいない。勝手にやりなさい」と一蹴された。図書館で探しても、女性史関係の本は1冊もない。途方に暮れていると、戦争が激しくなり、一時は農村動員に。戦後に大学へ戻り、外国にいる恩師に手紙を書いて本を送ってもらうなど、本や資料集めに奔走し、独自に調査を進めた。
30代前半、福岡女子大学の講師として福岡へ。「九州の熱い女性に会える」と意気込んで臨んだ授業で、拍子抜けした。「女生徒たちは、うんともすんとも言わないの。わけを聞くと、女性は人前で発言する訓練をしていないというのよ」。そこで授業にディスカッションを取り入れ、テーマ決めや司会も学生が担当。少人数でスタートした授業は「おもしろい」と話題になり、受講者がみるみる増加。評判を聞きつけた九州大学の学生もこっそり受講していたと、あとから知った。
学内で苦境に立たされたこともある。秋枝さんを快く思わない男性教員たちから、「男女平等というなら、やってみろ」と大学の労働組合長に選出されたのだ。「できませんなんて、言いたくない。断ったら、やはり女性はと言われてしまう」と引き受けた。女性初の組合長として、他大学と比較した資料をまとめ、県立大学の予算がいかに少ないかを訴えた。県幹部も理解してくれ、結果、前年比50%以上の予算アップという快挙を成し遂げた。
73歳まで大学で教鞭を執る一方、福岡県婦人問題懇話会の委員やNGO女性政策提言委員会の代表として、教育や女性の地位向上について提言を続けてきた。どんな相手にも臆することなく、自分の考えを伝えてきた秋枝さん。その高潔な人柄とまっすぐな情熱は相手の心を動かし、やがて社会を変える力になったのだ。
世の中には「社会の責任」と「家庭の責任」があり、男女が両方持つのが望ましいというのが秋枝さんの持論。今の日本に必要なのは「仕事の時間短縮」という。「男性が早く帰宅できる仕組みを整えることが重要。男性は家事や育児を手伝い、妻や子どもと対話してほしい。男性が家庭の責任の一端を担えば、女性も働けるようになる」と力を込める。
秋枝さん自身にも、結婚のチャンスは何度かあった。しかし、仕事と両立できる環境ではなく、独身を通してきた。その裏には、忘れられない出来事がある。学生時代、やり手の男性教授に「女が研究室にいるのは目障り。さっさと嫁に行ってしまえ」といわれた。以前、彼は優秀な女性の助手を5年かけて育て上げたものの、これからというときに結婚で辞められ、「女は信用しない、採用しない」と頑なになっていたという。「あとに続く女性のために、マイナスになることはしないと肝に銘じました。もし結婚して仕事を辞めたら、これまでの自分の人生を否定することにもなる。それに、昔は家事も育児も大変手間のかかる重労働だったのよ」。
「わが生涯に悔いなし」と清々しい表情で言い切る秋枝さん。「私には子どもがいないけど、たくさんの教え子がいる。今でもよく遊びに来てくれるの。ありがたい」と笑顔がこぼれる。「捨てる神あれば拾う神あり。人生はね、もう駄目だと思うと、うまく転換する。しかも、前よりよく拓けるの。だから、悪いことが続いても、希望を捨てないで。『ケセラセラ』でいきましょう」。
(2012年10月取材)
秋枝さんが長年、健康のために取り組んでいるのが自彊(じきょう)体操。「体への負担が少なく、肺が強くなります。93歳になった今でも週6日、お友達とやっているんですよ」。また、お父様が俳句、お母様が短歌を趣味としており、「短いほうが簡単だろうという理由で選んだ」俳句も楽しみの一つ。「お金がかからず、体力もいらないから、ずっと続けられる趣味ですね。父が100歳で亡くなるまでボケなかったのは、俳句をやっていたおかげのような気がします」。
1920(大正9)年生まれ。東京女子大学を卒業後、教育関係の出版社と母校の東京女子大学に勤務したのち、旧制東北大学へ進学して、その後大学院修了。1954~85年、福岡女子大学で教鞭を執り、同大学名誉教授に。1963~64年にフルブライト研究員としてバーバード大学へ留学。男女雇用機会均等法の実現に関わり、福岡県における男女共同参画社会づくりにも大きく貢献。1988年には第6回福岡県女性海外研修事業「女性研修の翼」団長として、イギリス、オランダ、スウェーデンなど各国の女性の現状を視察。1991年に文部大臣より社会教育功労者、1994年に勲三等瑞宝章を叙勲、1997年に内閣府より第1回男女共同参画社会づくりの功労者として表彰された。
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