ロールモデル
ロールモデルとは
講師情報
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株式会社豊川設計事務所 代表取締役社長 / 一級建築士
建築一筋45年。建物を愛し、人を愛し、街を愛する情熱を原動力に歩んできた。「建物は人間が生活を営む空間。人にも街にも大きな影響があります。実用的で機能的、そして活力と幸福感を与えるものでありたいですね」と話す豊川裕子さん。「人間がいかに人間らしい感性で生きるか」をテーマに、理想の環境を目指している。
祖父の代から建築家という環境で育った。小さい頃から活気あふれる建築現場が大好きで、よく父の仕事に付いて行った。8歳のとき、棟上げの際に父から「おまえが男の子だったらな」と言われた。女性は棟上げの時屋根に上がれないことに強い疑問を持ち、「大きくなったら私も建築家になる!そして棟にも上がってやる!」と決意した。
同じ高校から工学部建築学科に進んだ女性は1人、大学では200人中2人。しかし、建築家になることは、豊川さんにとっては、一番身近にあり、魅力を感じる仕事だった。東京の大学で建築を学び、世界的に有名な教授の元で建築を学んだ後、大手ゼネコンに就職した。男性ばかりの中でひたむきに頑張ってきた。
22歳の時、共に建築家を目指していた男性と結婚。27歳で長男、3年後には次男が産まれた。
長男の小児喘息がひどかったため、30歳のとき北九州市へ帰郷。両親から育児のサポートを受けながら、夫と共に父の会社で仕事を続けた。「子どもの病気で命の重さを知りました。この世で一番大事なもの。建物は命を育む器であり、安全な環境でなくてはいけない。建築に対する思いも変わりました」。
建築家の仕事は多岐にわたる。また、各分野の専門家と一緒に仕事をしたり、依頼主の真意を理解するためにも、コミュニケーション力が重要だ。
依頼主の話をじっくり聞いて、そこに暮らす人の人生、生活様式や思いにまで考えをめぐらし、今だけではなく将来をも視野にいれて設計をしている。そうやって、依頼主から、「いい建築家に出会えた」と喜んでもらえることが何よりも嬉しいという。「勉強することは山ほどあり、非常に責任が重い。どれだけ毎日が大変で、つらいことか。それでも辞めようと思ったことはないのが不思議ですね」。
愛おしい子どもと一緒に過ごす時間が削られることがあったが、小さい頃に決めた意志が揺らぐことはなかった。
地元の建築家として、これまで、オフィスビル、病院、学校、住宅など数多くの建物を世に送り出してきた。
平成25年度から、「社会福祉法人北九州市手をつなぐ育成会」が、北九州市から譲渡を受けた6つの福祉施設の建て替え事業にも関わっている。設計にあたっては、明るく開放的で人間味あふれる空間づくりを意識し、障害者と地域住民との自然な交流を目指した。そうやって、八幡西区に完成した育成会の西部会館には、見学者が後をたたないという。「さまざまな個性が豊かに共生できる空間づくりをライフワークにしたい」と話す。
障害者施設の仕事をきっかけに、昨年発足した「障害者の国際交流を支援する会」の会長に就任した。そこでは、育成会と協力し、アジアにおける障害者の交流を促進している。ものづくりはまちづくり、人と人との交流にも繋がっていく。
「最近妖怪じみてきて、やけに勘が鋭くなってきたんですよ」と大らかに笑う豊川さん。意識を超えた感覚に助けられているという。真剣に仕事と向き合い、長年の経験によって培われたものなのだろう。「私にとって建築という仕事は、みんなの平和のためにある。大袈裟かもしれないけれど、そんな気持ちでやっています」。
温かく明るい笑顔、気さくな語り口。どんな仕事にも妥協せず、真摯に挑んできた姿は潔くて力強い。培った経験と信頼を軸に、さらに大きな夢を築いていく。 (2014年8月取材)
「新しい建物ができると、それがどんな影響を与えるのか想像しながら観察するんですよ」。豊川さんにとって街歩きは「趣味」であり「研究材料」だ。住宅、公共施設、アート、自然、すべてが観察の対象。周囲との調和、人の反応、時間による変化などさまざまな角度から検証していく。好奇心に満ちた鋭い眼差しで、愛する街を見つめ続ける。
北九州市出身。工学院大学建築学科卒業後、東京のゼネコンに就職。1979年北九州市に戻り、父が営む会社で仕事を始める。会社を引き継ぎ、2002年代表取締役社長に就任。幼稚園・保育園、学校、住宅、店舗設計など建築家として福岡県に建てた建物の数は約400軒。代表的なものに「千草ホテル」「九州歯科大学(JV)」「朝日広告社本社ビル」がある。まちづくり活動にも尽力し、さまざまな団体の代表や、福岡県や北九州市の審議会等の委員も務めている。
キーワード
【た】 【国際・まちづくり】 【研究・専門職】 【福祉】