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【センター長コラム】 日本国憲法第24条を書いた女性 ②  (2020年2月16日配信)

お変わりありませんか。

立春を過ぎると自然界には、そこここに春がやってきています。庭のふきのとうは一斉に大きくなりました。先日ホームセンターで河津桜の苗木を見つけたので早速購入し、鉢に植えていたら、もう満開になりました。

 

 

 

昨年6月のコラムで、日本国憲法第24条の「結婚に関する男女平等」の草案を書いた女性ベアテ・シロタについて紹介したところ、多くの反響をいただきました。

 

日本国憲法は、戦後の日本占領任務を担当していたGHQが草案を書き、それを日本が受け入れたもの、正確に言えば、GHQ草案をもとに、日本が憲法案をつくったものですが、GHQの草案作成メンバーの一人に当時22歳だったベアテ・シロタが選ばれたのでした。

 

ベアテは、5歳から15歳までを戦前の日本で暮らし、戸主制度の下で不幸な結婚生活を強いられていた女性の状況を見聞きしていたので、日本の女性が幸せな結婚生活を送るためにはどのような憲法があればよいかを考えながら書いた条文が第24条の草案です。

 

「歴史に『もし』は禁句」ですが、ベアテが日本国憲法の草案を書くまでの彼女の人生は、「もし・・だったら・・・」と思わずにはいられない、運命の糸によって導かれたようなエピソードの連続でした。

 

ベアテが生まれる前、両親の出会いまで時間を戻しましょう。

 

ベアテの父親レオ・シロタは、「リストの再来」といわれた著名なピアニストで、母親のオーギュスティーヌとは恋愛結婚ですが、2人が出会ったとき、オーギュスティーヌは既婚者であり、2歳の子どもの母親でした。オーギュスティーヌは悩んだ末に、子どもを夫のもとに残して離婚し、レオと結婚したのです。レオ33歳、オーギュスティーヌ25歳でした。

 

そしてベアテが生れ、1929年、ベアテが5歳のときに、シロタ一家は日本にやってきます。作曲家・山田耕筰の求めに応じ、東京音楽学校で教えるための来日で、6か月間の約束でした。

 

ところが、ベアテたちがウィーンを発った2か月後にアメリカで株の大暴落がおこって世界大恐慌となり、1930年にはドイツ総選挙でナチスが第2位に進出したことから、帰国を延ばし、シロタ家はそのままずっと日本で暮らしたのでした。

 

ベアテは、15歳になった1939年、アメリカ西海岸にある語学カレッジに留学することになります。音楽の才能は父親から受け継いでいませんでしたが、何か国語も操ることができる語学の才能があったからです。ベアテはソルボンヌ大学を希望していましたが、1939年は第2次世界大戦がはじまる年で、ヨーロッパは緊迫した状況にあったので、日本に一番近いアメリカ西海岸にしたのでした。

 

アメリカの入国ビザを取るにあたり、国が発行する、犯罪歴がないという証明書が必要になりましたが、シロタ家はオーストリア国籍のユダヤ人だったので、ヒトラーの影響からオーストリアの証明はとれない状況で、日本は日本人以外には出せないというスタンスでした。

 

そのときに助力したのが、福岡出身で総理大臣をつとめた広田弘毅です。シロタ家の近くに住んでいて、外国からくる郵便物が、シロタをヒロタと間違えて配達されることが多い「知り合い」でした。広田弘毅が在日アメリカ大使に電話をしてくれ、ベアテはアメリカに行くことができたのです。

 

1941年の夏休みに、両親はベアテに会いにアメリカを訪ねました。アメリカと日本の関係が不穏になりかけており、レオ・シロタの知人たちは、そのままアメリカに残ることを勧めたのですが、レオは、音楽学校との契約があり学生が待っていると知人たちの忠告を押し切り、日本へと向かう船に乗ったのでした。

 

案の定、両親は、途中寄港したハワイで足止めされますが、11月末、ようやく日本にたどり着きました。

 

その10日後、日本軍は真珠湾を攻撃したのです。日米の開戦です。

 

ベアテと両親はアメリカと日本に離れ離れになり、音信は不通、両親からの送金も途絶えました。戦争中、ベアテは、両親の消息を知るためと、生活費を稼ぐために、放送局や雑誌社に勤務、戦争が終わるとほぼ同時に、両親は健在だという情報を得て、日本に行くためにGHQの試験を受けたのでした。

 

日本語が堪能だったベアテはすぐに採用され、1945年12月24日クリスマス・イブの日に、再び日本に来たのです。

 

日本で両親と再会を果たしたベアテは、翌1946年2月に憲法草案を執筆することになります。

 

ベアテは、子どもの頃に、日本洋画界の重鎮・梅原龍三郎の紹介で長くシロタ家のお手伝いをした女性から、いろいろと日本の女性の話を聞いていたので、そんな話を思い出しながら、憲法草案を書いたのでした。

 

もし両親が出会わなかったら、もし世界大恐慌にならなかったなら、ベアテに語学の才能がなかったなら、レオ・シロタが日本に帰ると主張しなかったなら・・・などなど、いくつもの「もし」を感じる、伏線が張り巡らされたドラマのような気がします。

 

また、社会情勢や国の関係というものは、人の人生をこんなにも変えていくものかと、しみじみ思います。

 

今回は、結びも花の写真で。

私ごとですが、2月は私の誕生月。誕生日に花が届きました。木立セネシオ「貴凰」です。少しずつ開花していっています。庭で摘んだ花々とともにアップしました。

 

実は、ベアテの憲法草案のエピソードは、ここで終わりではありません。続きは次回のコラムでご紹介したいと思います。

ではまた。

                                                                                               (2020.02.16)

 

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