【ロールモデル】
ロールモデルとは
株式会社朝日新聞社 取締役・西部本社代表
2013年6月、「朝日新聞社」取締役・西部本社代表に就任した町田智子さん。入社以来、主に事業企画の道を歩み、同社の女性で史上2人目の取締役、そして初の西部本社代表として注目を集めている。堂々と気品あふれる雰囲気ながら、親しみやすい笑顔でこれまでの道のりを語ってくれた。その表情は実に生き生きとしており、「仕事が楽しくてたまらない」という思いがあふれていた。
大分県で生まれ、若い頃油絵を描いていた母親の影響で芸術に親しみ育った町田さん。慶応義塾大学に進学して、日本経済史を専攻。「書くことが好きで、経済的にも自立し、ずっと働き続けたい」と考え、就職先として選んだのは朝日新聞社の記者だった。「元々親しんでいた新聞。男女の区別がなく、女性が働きやすい会社だと聞いていたので。最終面接で『文化を紹介する記者になりたい』と話したら、『記者ではなく文化事業の仕事をしてみないか?』と声をかけられたんです」。思いもよらぬ道だったが、1年の記者修行を経て、文化事業を担当する企画部へ。ベテランがそろう中、同部で初めての新卒社員として期待を受け、意欲的に仕事に取り組んだという。
朝日新聞社は、夏の甲子園から芸術分野まで、全国で年間100本以上の事業を手がけている。中でも世界的な美術品を誘致する展覧会は、目玉の一つだ。事業企画の業務は監修者とのプランニングにはじまり、国内外の美術館や政府、所蔵家、作家との交渉、図録の作成、広報、作品の展示・管理まで多岐にわたる。
およそ30年、数々の事業に携わってきた町田さん。特に印象に残っているのは、2009年の「国宝 阿修羅展」だという。東京と福岡で開催された同展は大きな話題を集め、東京国立博物館での入場者数は94万6172人を記録。英国の美術紙によると、2009年の展覧会入場者数ランキング(1日平均)で世界第1位に輝いた。福岡では、九州国立博物館で7月~9月に開催。「実は心配したんですよ。東京では入場に数時間待ちでしたので、真夏の福岡で並んでいただくのは大変だなと思って。ですから、エントランスにテントを張り、ドライミストを備えて臨みました。70万人以上にお越しいただき、最大5時間待ちでしたが、無事故で終わってホッとしました」。
厳しい局面に立たされたこともある。2011年東日本大震災の直後、原発事故への懸念により、各国の美術館や政府から続々と展覧会の中止が伝えられた。それでも粘り強く交渉を続け、そのうちの一つ、青森県立美術館の「印象派展」は、開幕直前にドイツの美術館から了解を取り付け、開催にこぎつけた。「“光”を描く印象派の作品こそ、東北の方たちに届けたかったんです。どんな仕事にも、不測の事態は起こりうる。けれど、いつもベストを尽くし、互いにリスペクトし信頼し合って仕事を進めたいと考えています」。
その言葉の裏には、こんなエピソードがある。「震災の日の深夜、各国の美術館や文化関係者から次々に心配するメールが届いたんです。オランダ・マウリッツハイス王立美術館の館長と副館長は、美術館に募金箱まで置いてくれて…深く感銘を受けました。仕事を通じて、素晴らしい作品や人との出会いがたくさんありますね」としみじみ語る。
2013年、女性として初の西部本社代表に就任。会議や式典、講演などで全国を飛び回る日々だ。「とにかく仕事がおもしろくて、上を目指そうと意識したことはなかった」と言うが、「社会で活躍する女性が増えてほしいから、私もしっかりしなきゃと身が引き締まります」と凛とした表情を見せた。そうして、ふわっと柔らかい笑顔に。「ただね、私は気負わず自然体でいたいんです。大切にしているのは“誠実”であることと“楽しむ”こと。これまで積み重ねてきた経験とネットワークを活かして、お役に立てるとうれしい。九州をはじめ日本、世界が元気になるように、いろいろなことを発信していきます」。 (2014年6月取材)
町田さんは25歳で結婚し、出産後すぐに職場復帰したという。「大学教員の夫が育児や家事をやってくれたおかげで、今の私がいるんですよ」と家族の支えに感謝している。現在は単身赴任中のため、たまの休日は友人とウォーキングするのが楽しみ。「昨年秋から月1回のペースで、香椎の海岸線をぶらぶらと歩いたり、お城めぐりをしたりしています。大分の実家にも帰っていますよ」。
大分県臼杵市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、1982年朝日新聞社に入社。文化企画局メセナ部次長、経営戦略室主査、企画事業本部長などを経て、2013年6月から現職。国立科学博物館評議員、国立文化施設等に関する検討会委員、国立西洋美術館評議員などを歴任。
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【ま】 【働く・キャリアアップ】 【文化・芸術/伝統工芸】