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大倉 紀子(おおくらのりこ)さん (2013年8月取材)

【ロールモデル】
ロールモデルとは

株式会社ジャンヌマリー 代表取締役

成功への道は努力の積み重ねしかない

 繊維業界で国内トップクラスの企画デザイン会社として、その名をはせるジャンヌマリー。30年前に起業し、今や30名を超えるデザイナー集団を率いているのが大倉紀子さんだ。さわやかな笑顔の陰には、パワフルな歩みと揺るぎない信念があった。

海外に出て身についたグローバルな意識

 筑後市で生まれ、幼いころから絵や詩を書くことが好きだった大倉さん。芸術短期大学を卒業後、久留米市の繊維会社に就職した。初の社内デザイナーとして、バス・トイレタリー製品を担当。客からのオーダーに加えて、オリジナルアイテムも手がけ、「やりたい放題だった」と自ら振り返る大倉さんの勢いを象徴するエピソードがある。22歳のとき、「40代の営業のおじさんたちに『もっと売れるはず』と言ったら、『お前が売ってこい』とはね返されたの。だから風呂敷に商品をたくさん包んで、ひとりで夜行列車に乗り、大阪へ売りに行きましたよ。毎月、問屋さんを売り歩いたら、評判を呼んで売上も伸びて。箱を工夫すればもっと売れるかもと、パッケージまでデザインしました」と楽しそうに話す。
 とどまることを知らない好奇心と行動力は、やがて海外へ向いた。商社出身の社長に「留学したい」と直談判したところ、「もっと売れる仕組みを作れたら」と条件を提示された。各地のホテルで展示会を開き、地元の八女茶を振る舞うなどして、見事に販路開拓に成功。26歳のとき、有給休暇扱いでウィーンへ飛んだ。当時のことは、西日本新聞に「ウィーン便り」と題した連載がある。「給料だけでは暮らせないので、原稿料がほしくて新聞社に売り込んだの」。1980年代前半、若い日本人女性が海外へ出ること自体が珍しく、連載も「おもしろい」と好評を博した。
 けれど、2年ほどの留学・企業研修生活は、決してバラ色ではなかった。「歴然とした階級社会、民族や人種や宗教の壁…。黄色人種として差別を受け、口さえきいてもらえないことも。肉体的にも精神的にも辛く、自分のキャパぎりぎりのところで踏ん張った」と打ち明ける。そんな中、大学の教授が教えてくれた「もっとも尊敬すべきはオリジナリティ」という言葉が印象に残った。「世界のスタンダードを知り、アイデンティティについて考え抜いた、濃密な時間でした。あのときの経験のおかげで今の私がいます」。

多くの人を惹きつけるデザインを発信

 帰国後、デザイン会社を設立。地元の小さな案件からスタートして、仕事のフィールドはどんどん広がった。大倉さんのこだわりは、大衆向けのデザイン。バブルを経験してもなお、その信念が変わることはなかった。「日本ではブランド化が流行り、モノに価値をつけ、高く売っていた。それが嫌だったんです。私は一生涯、大衆の役に立つ仕事をすると決めました」。多くの人に支持されるためには、単なる感覚ではなく、明確なコンセプトや理論が必要。マーケティングやプロデュースも手がけるようになった。会社の朝礼では、経済や世界情勢も話題にする。人々の生活の上に成り立つデザイン、それがジャンヌマリースタイルだ。
 そしてもう一つ、福岡にいながら、大手企業と直接取引をしているのも大きな特徴。「東京オフィスと福岡オフィスでテレビ会議システムを常時利用することで、東京のクライアントともリアルタイムに打ち合わせできるんですよ」。

たゆまぬ努力とチャレンジ精神で道を拓く

 起業から30年。クライアントは有名な上場企業40社ほどにのぼり、国内はもとより海外出張も多い。成長の秘訣を尋ねると、「努力」と明快な一言が返ってきた。「今の仕事に全ての情熱を傾け、前を向いて次々に打ち続ける。日々技術を磨き、120%で返してきたからこそ、認められたと思います。痛みを怖がらず、やってみる。成功しても失敗しても、やることでワンステップ上がるのだから。成功への道は、努力の積み重ねしかない。ビジネスもスポーツも、男でも女でも」。
 ファッションデザインという一見華やかな世界。凛とした佇まいの大倉さんは、まるで白鳥のように水面下で水をかき続けている。「努力」というシンプルで、でも忘れがちなことをまっすぐな眼差しで語る彼女は、突き抜けたかっこよさと気高さをまとっていた。 (2013年8月取材)

コラム

私の大切な時間

「海外に出ることで成長できる」というのが大倉さんの持論。会社を立ち上げて10年ほどは、勤続5年のスタッフを1か月の海外研修に派遣していたほどだ。自身は42歳のとき、日本貿易振興機構(JETRO)で初の女性専門家として海外に派遣されたのを皮切りに、主にアジア地域で商品開発をプロデュースしてきた。「日本のデザインや開発技術は優れているので、アジアの人たちに伝えていきたいですね。一方で、日本でモノを作る拠点をどう残していくか、次の世代にどうつないでいくかを考えるのも、私の使命だと感じています」。

プロフィール

筑後市出身。八女高校、大分県立芸術短期大学(現・大分県立芸術文化短期大学)を卒業後、久留米市の牛島工業株式会社にデザイナーとして勤務。在職中、ウィーンにて研修。1983年に久留米市で事務所を構え、92年に福岡市へ移転して法人化。女性デザイナー集団として、ニッセンやイトーヨーカ堂など大手40社ほどのクライアントと仕事をしている。JETROの日本向け輸出商品を発掘する専門家としてアジア各地を飛び回り、博多織を現代のファッションに取り入れた「HAKATA JAPAN」もプロデュース。大学の非常勤講師、西日本新聞へのファッションコラム寄稿など、幅広い分野で活躍。

 

 

 

 


 

 

 

 

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