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取材時:福岡県立特別支援学校福岡高等学園校長、福岡県特別支援学校校長協会会長
「特別支援教育に関わらなければ、私の障がい者の方を見る目、そして世の中を見る目は、とても偏ったものになっていたでしょうね」。そう語るのは、25年間にわたって障がいのある児童・生徒の教育に情熱を注ぎ続けてきた江島玲子さんだ。
江島さんは福岡女子大学家政学部で食物学を専攻。大学時代に家庭科の教職免許は取得していたが、研究室で学んだ食品微生物学を活かしたいとの思いから、1974(昭和49)年に岩田屋に就職する。
専門職での採用で、配属先は商品研究室。食品や被服の品質や安全性のチェック、クレーム商品の検査と情報のフィードバックなど業務は多岐に及んだ。「たとえば食品を検査して、使用されている着色料などの安全性に問題があれば、取り扱い中止となります。納入業者の方には死活問題になり、また岩田屋には信用問題になりますから、検査はいつも真剣勝負の厳しさでした」と振り返る。
強い責任感を持って仕事に取り組んでいた江島さんだが、時間とともにルーチン化していくことに違和感を覚え始め、入社して8年、30歳の節目に辞表を提出した。
退職後、リフレッシュのため3ヵ月間のヨーロッパ一人旅へ出発。新たな気持ちで帰国した江島さんを待っていたのは、産休代替講師の仕事だった。とはいえ代替講師の身分は不安定。ある日、勤務先の高校の校長から「3年間講師をすれば、35歳までなら採用試験を受けられる。挑戦してみては…」と強く勧められる。そして1986(昭和61)年、正式に高校の家庭科教師となった江島さんに、福岡県立直方聾学校への辞令が出た。
「当時、特別支援教育について何の知識もなかったし、生徒たちにどう対応すればいいのかすら分からなかった」。思ってもいなかった配属先。不安と戸惑いの中、手話を習うなど手探りで進んでいった。
通常、ひとつの学校に3年間勤務すれば異動対象となり、転出先を希望することができる。3年後には普通高校へ転出願いを出そうと考えていた江島さんだったが、わずか1年で新設の『福岡高等養護学校』へ異動となる。同校は、福岡県で軽度の知的障がい者のために開校した初の高等部単独校。家庭科の先生が必要ということでの異例の転勤だった。
そして、これを機会に運命は特別支援教育へ引き寄せられていく。
「幸運だったのは、特別支援教育のオーソリティである校長と出会えたこと。多くのアドバイスをいただきました」。人生の分岐点で、人はメンターと呼ばれるよき師・助言者にめぐり会うというが、江島さんと校長がそれだった。
学校では生徒に1年目はここまで伸びてほしい。2年目はここまで…という計画指導を行なうが、ほとんどの場合、予測以上の成果を見せてくれたという。「教えた以上に応えてくれて、生徒たちの成長力には驚きました。教師冥利に尽きました」と懐かしむ。
第一期生の卒業に際しては、「療育手帳を使わず、全員を一般就労させよう」との合言葉のもと、教師が一丸となって企業を開拓。1000社に電話をして200社を訪問、50社から求人票を勝ち取ったこともあったという。
6年間の在籍後、江島さんは教育センターへ。以後も教育庁、北筑前養護学校などで経験を積み、2010(平成22)年に福岡県立古賀特別支援学校の校長に就任。新設校で発揮されたのは、現場と行政の両方を知る学校運営だった。そして2011(平成23)年4月、福岡高等学園へ異動。特別支援教育とともに歩む江島さんの奮闘は、まだまだ続く。
(2011年3月取材)
実は学生時代にバトミントンをやっていた経験があり、約20年ほどスポーツ教室でコーチをしていました。忙しくて足が遠のいてしまいましたが、最近はゴルフに親しんでいます。岩田屋時代に始めたものの中断したままになっているお茶も再開するつもりです。動のゴルフと静のお茶。そして、先生方とのお酒でリフレッシュしたいですね。
1974(昭和49)年、福岡女子大学家政学部家政学科卒業後、岩田屋に入社し、商品研究室へ配属される。岩田屋退職後、1983(昭和58)年より福岡市立金武中学校などの家庭科講師に就く。教員採用試験に合格後、1986(昭和61)年、福岡県立直方聾学校教諭となり特別支援教育の道を歩み始める。以後、福岡県教育センターや福岡県教育庁、福岡県立北筑前養護学校など現場と行政のキャリアを積む。
2008(平成20)年に出された「県立特別支援学校の整備に関する計画」の策定に関わる。2010(平成22)年、福岡県立古賀特別支援学校校長を経て、2011年4月から2012年3月まで福岡県立特別支援学校「福岡高等学園」校長を務める。
キーワード
【あ】 【働く・キャリアアップ】 【研究・専門職】 【福祉】